吉田です。つづきです。
洪作が、尋常小学校二年生の頃から物語りは始まる。大正4,5年の頃だ。
旧帝室林野管理局天城出長所、当時湯ヶ島部落の人たちは、お役所 と呼んでいた。今でも森林管理署というお役所だ。
ここの正門前が、洪作たちの数多い遊び場のうち、一番の遊び場であった。
夕方、どこからともなく しろばんば という浮遊する小さな虫が現れると、遊んでいた子供たちは、しろばんば しろばんばと叫びながら夕食の待つ家路についた。
洪作が おぬい婆さんと暮らしていた 土蔵 跡地。今では小さな公園になっている。
しろばんば の石碑もある。
洪作のところは夕食が遅く、いつもいちばん遅くまで遊んでいた。
ただ、遊び場のお役所からは走れば一分もかからない。
ひとつ年少の、金物屋の腕白小僧 幸夫 の家。
土蔵とは、旧道を挟んだ対角にあり、いまでも金物屋として営業している。
天城山麓から流れ出る豊かな水の恵み、湯ヶ島には、いたるところに水路がある。
おぬい婆さんからもらった おめざ を食べ終えた洪作は、土蔵の横手にある小川から手で水を掬い、ぶくぶくをして、顔をなでた。
朝食を食べていると、幸夫たちが、「洪ちゃ、学校へ行こう。洪ちゃ、学校へ行こう」と誘いに来る。
洪作にはそれが、「コウチャ、ガッコエコウ」と聞こえる。
始業時間の、一時間以上前だ。子供たちは登校前のこの時間も、遊び回る。
本には、「学校までは、走れば五分もかからなかった」とあるが、歩いても五分とかからない。子供の頃の道や景色が、広く遠く感じるのは 井上靖も例外ではなかったようだ。
湯ヶ島小学校は、移転していた。跡地は、天城温泉会館となっている。日帰り温泉施設や今回の 井上靖生誕100年などのイベント会場がある。
現在の 湯ヶ島小学校 ここも洪作の土蔵からは、走れば五分とかからない。
正門を入った所には、洪作とおぬい婆さんの像がある。
土蔵の前、旧道を挟んで 上の家 がある。
洪作の祖父母(母方)や、洪作と同い年の叔母 おみつ その姉の沼津の女学校を出て洪作の通う小学校の教師になる さき子 たちが住んでいる。
さき子は洪作が叔母さんと呼ぶと、不機嫌になる。年齢も容姿も、さき子姉ちゃん なのだ。
洪作が、さき子のお供をして おみつや幸夫たちと通った河原にある 西平の共同湯。
さき子にシャボンで、体を洗ってもらう洪作の目にも、「さき子の白い豊満な裸体が湯しぶきの間から眩しく見えた」
当然、入ってみた。入浴料250円。 当時の、簡単な屋根 どっちが男湯で女湯か決められていない浴槽、とは違い建て替えられているが、湯量豊富で、四六時中湯があふれているさまは、当時のままだった。
読書は、映画やTVと違い、自分の情景を創れるところが凄い。それが三十年以上そのまま残っているところが凄い。そして、その地を訪れた時、また新たな情景が重なっていく。
いい旅だった。
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